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傾国の美女 [歴史]

淀.jpg 淀君の決断はことごとく豊臣家にとってに裏目にでました。まず関ヶ原の時、東軍西軍のいずれにもつかず、あくまで家来どうしの争いを傍観するという立場をとりました。その結果、石田、大谷、宇喜多という豊臣家忠義の大名が滅ぼされ、豊臣家自体も65万石(和泉、河内)の大名に成り下がってしまいました。
次に大阪冬の陣において、真田幸村が真田丸で徳川軍に打撃を与えたあと、家康は国崩しという大筒で大阪城にむけて玉を発射しました。これに怯えた淀君は和議に応じました。その結果、大阪城の堀がうめられ、天下の名城が丸裸にされてしまいました。これで事実上、豊臣家の息の根は止められたと言っても過言ではないでしょう。
さらに夏の陣で幸村を始めとする浪人衆が豊臣秀頼の出馬を要請をした時、淀君は頑として聞き入れませんでした。豊臣忠義の浪人衆は秀頼の馬印を見れば味方の士気が上がり、同時に幕府側の豊臣恩顧の大名に少なからず動揺を与えることができると考えたのです。しかし、淀は秀頼に危険が及ぶとして、最後まで出馬させませんでした。この期に及んでなんという決断でしょう。浪人衆としても秀頼と共に戦って、死に花を咲かせたかったことでしょう。
淀君という女性は男を虜にする能力はありましたが、政治的能力はまったくなかった女性であるといえます。「真田丸」で出てくる淀君も意味深なことを言うだけで役に立たたない人物ですねぇ。






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