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本能寺の変の動機(私見) [歴史]

本能寺の変の明智光秀の動機、大河ドラマ「麒麟が来る」ではどのように描くのか楽しみです。いろんな説があり、いまの所、その動機は分かっていません。
しかし野心説はないと思います。本能寺の変の際、光秀はかなりの高齢になっており、天下を手中に収めるのは厳しいからです。また黒幕説(足利将軍、朝廷、長曾我部)もないと思います。光秀は頭の良い人で他人に操られるような人物ではないからです。
私は以前にもブログで指摘しましたがある種のパワハラ説を主張します。ただ、ここで誤解がないように言いたいのは単なる怨恨を果たすために変を起こしたと言っているのではありません。もっと大きなものを意味しています。

信長は1570年代後半から、家来や従属大名に対して厳しい人事評価を行うようになりました。そしてその監視も極めて強いものになっています。森蘭丸のような小姓が信長の目と耳の役割を果たしました。明智光秀と親戚関係にあった荒木村重はこの小姓を非常に嫌ったという記録があります。自分の働きを事実通りに伝えず、信長から叱責を受けることが多くなったからです。明智光秀もこの小姓たちを非常に嫌っていました。

後に荒木村重は謀反を起こします。信長はなぜ村重が謀反を起こしたのか理解できなかったというのです。しかし村重は信長にいつ使い捨てにされるか恐れていたというのです。村重はある時、石山本願寺と通じていると密告されます。信長に申し開きに来るように命令されたのですが、殺されることを恐れて行かなかったのです。誤解があったにせよ、精神的に追い込まれていたのです。

他にも、佐久間信盛という信長の父親の頃から仕えていた武将がいるのですが、同時期に信長から働きが悪いという理由で追放されています。信盛は退職金をもらえず、身一つで追放されたため、高野山をさまよったあげく、餓死してしまったのです。
さらには徳川家康の長男の信康は武田氏と通じているという疑いをかけられて、信長に切腹を命じられています。徳川家康はこの命令を中々実行しなかったのですが、家を守るため、泣く泣く信康を切腹させました。

このように信長に仕えていた武将たちは、かなりしんどい目にあっています。1582年光秀はまだ倒していない毛利の領土である、出雲・石見をもらう代わりに、自己の領地である丹波と坂本の没収を命じられました。光秀は領地を召し上げられれば、佐久間信盛のように家臣・一族が路頭に迷うことになると考えたに違いありません。

信長が光秀を使い捨てにする意思があったかどうかはわかりませんが、それまでの行動から光秀が誤解した可能性があると思います。そのまま我慢して仕えていても、佐久間信盛のようになるぐらいなら、一か八か、謀反を起こして活路を見つけようと考えても不思議ではありません。京都に信長の軍勢はおらず、森蘭丸のような小姓100人ぐらいしかいないのを見て、千載一遇の機会だと思ったのだと思います。

本能寺の変の後、光秀は朝廷や足利義昭に接近していますが、自己の行為を正当化するために接近したのであって、操られたのではないと思います。
また、天下をとることは出来ずとも、毛利や上杉と同盟を結び、細川と筒井が味方につけば、柴田、丹羽、羽柴と互角に戦えると考えたのだと思います。さらに堺見物に来ていた家康を討てば、かつての三好長慶のように近畿を掌握することが出来ます。
羽柴秀吉があのように速く中国大返しをしてくるとは思いもよらなかったのでしょう。
結論から言えば、光秀は信長によって家が滅ぼされないようにするためにやむなく変を起こしたと私は考えます。





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裁かれなかった戦争犯罪人4(満州事変中心人物) [歴史]

昨年に引き続き、先の大戦の戦争犯罪人でありながら、裁かれなっかた軍人を紹介しようと思います。今回は、満州事変の首謀者である、関東軍参謀、陸軍中将の石原莞爾です。

彼は自身の最終戦争論を基に、関東軍による満蒙領有計画を立案しました。そして、政府の承認を得ず独断専行で日本本土の3倍もの面積を持つ満州を占領しました。わずか1万数千の関東軍で23万の張学良の軍を打ち破るという、驚異的な軍事成果を上げました。
しかし、このことが、悪い先例を作ることになりました。後に武藤章、田中隆吉、牟田口廉也などの参謀は石原と同様、独断専行で盧溝橋事件を引き起こし、日中戦争を泥沼化させました。そしてこれが原因となって、太平洋戦争に結びついていくのです。

また石原莞爾は皇道派の代表格であり、青年将校から尊敬されていました。永田鉄山軍務局長を白昼堂々、切り殺した相沢三郎中佐や2.26事件を起こした青年将校に大きな影響を与えていました。
ですが、彼は2.26事件を起こした青年将校とは、何の関係もないと言い張り、罪を逃れました。

さらに軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣一成に組閣の大命が降下されようとした時、石原はこれを妨害し、組閣を断念させました。

彼の行動は間違いなく、日本を悪い方向へ導きました。
ただ、彼はGHQに裁かれなかったのです。不思議でなりません。
処刑になるかはどうかは別として、禁固にはすべき人物です。
彼は、たまたま、対米開戦を主導した東条英機と仲が悪かったため、太平洋戦争中は予備役に回されていました。それが幸いして、罪を免れたのです。しかし先の大戦は満州事変から語られるべきであり、間違いなく彼は戦争犯罪人です。平和に対する罪を起こしたのです。






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明智光秀楽しみ [歴史]

来年2019の大河ドラマは「麒麟が来る」明智光秀ですね。最近の大河ドラマは戦国時代か幕末維新に偏っているような気がします。ただ、明智光秀は楽しみにしています。

まず、明智光秀から見た本能寺の変をどのように描くのか楽しみにしています。最近では、本能寺の変の動機に関し、いろんな説が飛び交っています。
次に、信長に仕えてからの光秀についてはよく知っていますが、仕える前の光秀のことはあまりよく知りません。非常に興味があります。

「麒麟が来る」期待してます[わーい(嬉しい顔)]





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荻生徂徠が正しい(赤穂浪士への裁定) [歴史]

この時期は赤穂浪士を扱った昔のドラマがよく再放送されています。
私は忠臣蔵が好きです。やはり、命をかけて敵討ちを果たした赤穂浪士には心を打たれるものがあります。

しかし、いかに忠義の士であっても、切腹の裁断を下したことは正しかったと思います。
忠義の士であっても、やはり夜襲をかけて、人を殺したことには間違いはありません。
これをお咎めなしにすれば、各地であだ討ちが頻発したと思います。
また、たとえ忠義の士であっても、世間に誉めそやされれば、それを鼻にかけて道を外すものも出てきたと思います。

忠臣蔵が現在も美談として語り継がれているのは、荻生徂徠が主張した切腹を下したからだと思います。


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大河ドラマ「西郷どん」を見て [歴史]

幕末維新はもう飽きたと以前、私は言いましたが、
西郷を演じた、鈴木亮平さんの演技はうまかったと思います。
西郷の人柄がにじみ出ていると思います。

しかし、西郷隆盛が輝いていたのは、江戸無血開城までだと思います。
その後の上野彰義隊との戦いや長岡藩との戦いでも、西郷の戦略にはまずい面がありました。
上野彰義隊を壊滅させたのは長州の大村益次郎です。

新政府が樹立してからも、岩倉使節団に参加せず、やや時代についていけなくなっていた面があると思います。私は西郷も西欧にいくべきだったと思います。彼が尊敬していた島津斉彬が生きていれば、なぜ行かなかったのかと叱責していたと思います。

親友の大久保利通と対立していく姿を見るのは辛いですが、もし西郷が使節団に参加していれば、西南戦争も起こらなかったと思います。





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裁かれなかった戦争犯罪人3 [歴史]

最後は石井四郎中将を取り上げます。彼は731部隊と呼ばれる細菌部隊の隊長です。
満州において捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人を「マルタ(丸太)」と呼び、人体実験を行いました。詳しい内容についてはあまりに凄惨なのでここでは触れません。およそ3000人の人が人体実験により殺されたそうです。

極東国際軍事裁判(東京裁判)において戦犯容疑を問われたが、詳細な研究資料をアメリカに提供したため、GHQのダグラス・マッカーサー最高司令官とチャールズ・ウィロビー少将の協議によって訴追を免れたのです。いわゆる司法取引です。アメリカも、そういう意味ではいい加減な国です。

そして石井中将は戦後、医院を開業し、1959年まで生きたのです。人体実験という非人道的行為を指揮した者がなぜ何の裁きを受けなかったのか、まったく理解できません。神や仏はいないのでしょうか。このような事例を見ると、そのように思ってしまいます。





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裁かれなかった戦争犯罪人2(終戦記念日特集) [歴史]

2回目は辻政信陸軍大佐です。彼は関東軍参謀本部にも所属していました。
辻はノモンハン事件、ポートモレスビー作戦を指揮した人物です。他にもフィリピンにおけるバターン死の行進、ガダルカナル島の戦いにも関わっています。ここでは前2者について触れたいと思います。

まずノモンハン事件について述べます。1939年5月にモンゴルと満州帝国との間で国境紛争が起こり、それぞれの国の後ろ盾であるソ連と日本が衝突することになりました。当初、陸軍省中央は事件不拡大の方針をとっていましたが、関東軍が独断専行でソ連との紛争に踏み切ったのです。
その当時、日本は日中戦争が泥沼化している最中で、ソ連との紛争を避けるべきでした。にもかかわらず、辻参謀は強行作戦を主張し続けたのです。

その結果、ソ連の機械化部隊(戦車)による大攻勢を受け、日本軍は大敗し、第23師団は壊滅したのです。そして自分自身は何の責任も取らず、部下に責任を押し付け、自決を強要したのです。

次にポートモレスビー作戦について触れたいと思います。1942年6月にミッドウェー海戦で敗北し、日本の太平洋における制空権が危うくなりました。その結果、既に占領していたニューギニア方面のラバウル航空基地の重要性が高まりました。ところが、ポートモレスビーという町に駐留していたオーストラリア軍とアメリカの航空部隊がラバウルを奪還しようとする動きを見せました。そこで、ポートモレスビーのオーストラリア軍を叩こうという考えが陸軍の中で浮かびあがりました。しかしこの作戦はオーエンスタンレー山脈(最高峰4,000メートル)を直線距離で220キロを陸路で進行するというものであったため、大本営による慎重な調査研究をまつ必要がありました。
ところが、辻は「今や研究にあらずして実行である」と述べて、大本営は陸路攻略を決定したと偽の通知をして、攻撃命令を出したのです。その結果、あまりにも無謀な作戦であったため、約5000名の兵士がオーストラリア軍の攻撃と飢餓で犠牲になったのです。

辻は敗戦後、B級戦犯の指定を受けましたが、スキンヘッドであったことを利用して、僧侶に身をやつし逃亡したのです。戦犯指定解除となる1949年まで逃避行を続けたのです。辻の指揮を受けていた師団長たちはフィリピンなどでBC級戦犯として銃殺刑にされました。にもかかわらず、辻はのうのうと社会復帰をはたし、1952年には衆議院議員に当選します。なぜ、このような人物が裁かれなかったのか不思議でなりません。


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裁かれなかった戦争犯罪人1(終戦記念日特集) [歴史]

1回目の今日はインパール作戦を立案指揮した牟田口廉也中将について触れたいと思います。
まず、牟田口は盧溝橋事件の端緒を作り出した人物です。さらにインパール作戦を立案し、多くの師団長が反対したにも関わらず、作戦を強行した人物です。インパール作戦とはインド(当時イギリス領)から中国(蒋介石国民党政府)への物資の輸送を遮断するために、当時日本が占領していたビルマからインドのインパールという町を占領しようとする作戦のことです。

この作戦は本当に無謀な作戦だったのです。まず行軍するルートが非常に険しい山脈である上、気候が湿地帯であったため、蚊などによってマラリアに感染しやすい場所だったのです。しかも日本軍は英軍とは違って補給物資が乏しかったため、インパールに近づく前に飢餓地獄に陥ってしまったのです。ですから、英軍と戦って戦死した人よりも、餓死して亡くなった人、苦しさから逃れるために自決した人の方が多かったのです。

後にこのようにして亡くなった人が行軍した道のことを「白骨街道」と呼ばれています。現在でも現地の人は遺骨を発見することがあると言っています。いかに悲惨な作戦であったかということがわかります。

現地の司令官は作戦が無謀で多くの兵士が飢餓に苦しんでいる旨伝え、作戦を即停止するよう牟田口に何度も打診したのです。ところが、牟田口は「弱気な発言は許さん」「食料ならジャングルの中で見つけろ」「弾がなくても突撃せよ」など、もうとにかく、とんでもない指揮官なのです。

にもかかわらず、彼は英軍が追撃に出てくると、白骨街道に兵士たちを置き去りにして、自分ひとり真っ先に前線から撤退したのである。

しかも敗戦後、彼は何の裁きも受けず、1966年まで生きたのです。そして兵士への謝罪の言葉は死ぬまでなかったのです。この人物は終戦直後、日本人の手で絞首刑にすべきであったと思います。


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浅野内匠頭の評価 [歴史]

12月14日は赤穂浪士討ち入りの日です。
浅野内匠頭のことを組織の長として最低な人物などと評価する方が最近、多いです。つまり家臣たちのことを考えずに一時の短気でお家をつぶしたというのです。

しかし、これは現代の価値観で考えるなら、そういえるかもしれませんが、当時の武士の価値観から考えれば決してそうとはいえないと思うのです。武士が万座で恥をかかされる行為は刀で切られるのと同じことを意味しました。ましてや浅野内匠頭は5万石の大名です。むしろ吉良上野介は武士でありながら武士の精神を忘れていたといえます。吉良家は高家という宮中の作法などを教える家であったため、平家のように公家化していたのだと思います。とはいえ、吉良家は公家ではなく、武士なのですから、決して大名に対して、恥をかかせる行為をしてはならなかったのです。武士道に反したのは浅野ではなく、吉良なのです。




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井伊の赤備え [歴史]

大河ドラマおんな城主井伊直虎も終盤になってきましたね。井伊家は今川家に本当に苦しめられました。私はこのドラマを見るまで、井伊家は徳川の直参旗本だと思っていました。
井伊直政は外様でありながら、本当によく頑張りました。後は徳川が大きくなるにつれて井伊も大きくなる一方なので安心して、ドラマを見ることができます。これまでは井伊家の一族・家臣が何人殺されるのかというぐらい殺され悲惨でした。

ところで井伊の赤備えですが、昨年の大河ドラマ「真田丸」の真田幸村も赤備えでしたが、やはりこちらも武田の影響を受けたようです。最初に赤備えを始めたのは武田信玄の重臣、飯富虎政、その弟の山県昌景だそうです。赤備えというのは目立つ色なので本来、不合理な鎧兜だそうです。よほど、武勇に優れた軍でないと身に着けることはできないそうです。徳川家康は武田家が滅ぶ際に武田の家来を随分召し抱えたそうです。織田信長は皆殺しを要求していたため、こっそりと匿ったそうです。その武田の家臣を吸収したのが井伊直政だったそうです。直政は徳川の直参ではなかったので、武田の家臣も抵抗なく直政の家臣になったそうです。井伊が強いのも納得できます。









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徳川慶喜の評価 [歴史]

今年は江戸幕府の終焉、大政奉還から丁度、150年だそうです。

幕府最後の将軍、徳川慶喜のことを肯定的に評価する方がいます。
すなわち、江戸の無血開城を実現して、明治維新を素早く実現させたというのである。

確かにそういう側面はあると思います。

しかし、私は評価できません。

彼は、幕府の最高責任者です。もし、責任を果たしたといえるためには、官軍に対し自ら切腹した上で、部下の除名嘆願をし、江戸無血開城を果たすべきだったと思うのです。

彼は鳥羽伏見の戦いで会津藩を初めとする部下を見捨て、逃亡し、そして命ごいをしたために、他の部下たちが賊軍として討伐されることになってしまったのです。





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満州国5(最終章) [歴史]

私は4回にわたって満州について語りましたが、何も満州事変を正当化するつもりはありません。
満州は日本とは明らかに異なる地域であり、同事件が国際法違反であることには間違いありません。
しかし、満州事変を中国国民の恥というのは言い過ぎです。中国はいつも日本に対して歴史を直視せよといいます。しかし、中国も歴史を直視すべきです。中国は満州事変と日中戦争を同列に論じて、1931年~1945年に起こった事件をすべて中国国民に対する罪と断じます。しかし満州国1から満州国4で論じたように中国は満州民族、満州の歴史をまったく無視して、満州事変を語っています。すなわち、日本が中国固有の領土を無理やり切り取り、中国最後の皇帝を無理やり連れてきて、傀儡国家を建設したように述べているのです。

また、わが国の日本史、世界史の教育も正確に教えているとはいえません。例えば、清=中国のように高校教師は教えているように思えます。清の成り立ちを正確に教えないと、満州事変やラストエンペラー溥儀を理解することはできません。

これが、私が今回、満州国を取り上げた理由です。









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満州国4 [歴史]

蒋介石軍が北伐を完了し、南京国民政府は華南・華中・華北(本来の中国の領土「中華」)を統一しました。これにより、張作霖という軍閥は華北を追われ満州に逃れることになりました。張作霖は漢民族出身ですが、元々、馬賊(盗賊の頭)出身で満州一帯を荒らしまわっていた経歴がありました。そういう理由で満州に縁があったといえます。この動きに対して満州に権益(満州鉄道等)をもっていた日本の関東軍は彼が邪魔だと判断し、爆死させました。これに恨みをもった、息子の張学良は蒋介石と手を結び、抗日運動を展開することになります。

関東軍参謀、石原莞爾は満州にいる張学良軍を叩き、満州を平定することは極めて容易であると判断しました。結果として関東軍の精鋭はわずか1万数千で張学良の23万の軍を打ち破り、たった5か月で日本国土の3倍あたる満州全土を掌握しました。確かに、この地域にも漢民族はたくさん住んでいました。漢民族はどうしても人口が多いので、満州に流れこんでいた者もいたのです。しかし、彼らは自分たちの住んでいる地域が中国(中華)であるという認識はなかったのです。この地域は元々、満州族が治めていた地域であったからです。関東軍が進軍した際、満州民族は自分たちの国を建国したかったため、協力的でした。そこに住んでいた漢民族の民衆も抵抗しませんでした。また、張学良の軍も中華ではない満州を守るために命がけで戦う者が少なく、非常に士気が低かったのです。他方、関東軍は日露戦争で獲得した満州の権益を守る必要があったため、非常に士気が高かったのです。さらにそれを指揮した石原莞爾は日本帝国陸軍にはめずらしく、天才的な軍人だったたのです。

石原莞爾は単に軍人というだけではなく、思想家でもあり、歴史家でもありました。他の関東軍参謀とは違って、満州民族の歴史を熟知していたのです。彼は満州事変を起こす前からそれほど大きな抵抗をうけることがないことを知っていたのです。それどころか、清朝最後の皇帝で満州族の溥儀を皇帝に立てれば、満州民族の民心を味方につけることができると考えたのです。これを見事に成功させた事件が満州事変です。

彼はのちに盧溝橋事件(1937年)に反対し、それ以上中国戦線を広げるべきではないと主張しています。自ら、満州事件を起こしておきながら、なにか矛盾した主張のように感じますが、実は矛盾していません。
北京、上海、南京、武漢、重慶などは間違いなく、古来から中国の領土です。例えば、南京でいえば、三国志の呉の都、建業のことです。そのような地域に進軍すれば、軍だけではなく、民衆も抵抗します。石原はそのことをよくわかっていたのです。しかし東条英機、板垣征四郎、武藤章などのA級戦犯はそのことがわからず、どんどん戦線を拡大させ、戦争を泥沼化させていったのです。








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満州国3 [歴史]

1912年、辛亥革命により清朝最後の皇帝、溥儀は退位しました。しかし、その後も中華民国臨時総統の袁世凱との取引により、紫禁城で今まで通りの生活することを保障されました。袁世凱は元々、清の軍人兼大臣であり、孫文の配下になることを忌み嫌いました。とはいえ華南・華中地方で孫文の革命軍が国民の支持を得ていたため、孫文と直接対立するわけにはいかず、溥儀を退位させることを孫文に約束しました。他方、自ら中華民国の大総統になるため、清の高官や宦官、軍閥を掌握して孫文に対抗しようとしました。

しかし袁世凱が1916年に死亡すると、華北は軍閥が乱立するようになり、世情が不安定化しました。軍閥の中には孫文の南京政府に降ろうとするものも出るようになりました。そんな中、北京に勢力を有していた軍閥が南京政府に忠誠を誓うため、紫禁城に乱入して、溥儀ら皇族を追い出し、紫禁城の財宝を盗み出しました。さらに孫文の後を継いだ蒋介石は北伐を開始し、張作霖を除く軍閥を倒し、華北を統一しました。北伐の際、蒋介石軍は清の歴代皇帝、西太后の陵墓を暴き、財宝を奪いつくしました。

溥儀はこういった漢民族の仕打ちを深く恨みました。彼は先祖の地、満州に戻って、再起を図ることを決意したのです。これに着目したのが関東軍参謀、石原莞爾です。彼は満州事変の中心人物であり、さらに満州帝国建国の草案を作った人物です。

長くなってしまったので、次回参謀石原莞爾にふれつつ、本題に入っていきたいと思います。


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満州国2 [歴史]

満州とよばれる中国の東北地方は元々、漢民族が支配した歴史はありませんでした。この地域は女真族(後に満州族と改名)と呼ばれる人たちが住んでいました。元々、彼らは漢民族とは違い、定住せず、東北地方のあちこちを遊牧する民族でした。1115年に金という国家を作りましたが、モンゴル帝国に滅ぼされてから、400年弱、各部族がバラバラとなり、統一国家はできませんでした

そんな中、1616年になって女真族のヌルハチ(清の初代皇帝)が出て、東北地方に後金という統一王朝を樹立させました。この王朝は強力な国家で、2代目のホンタイジの時には朝鮮をわずか50日で屈服させ、国名を後金から清に改めました。そして3代目の順治帝の時代になると明の領土を呑み込み、紫禁城に入城しました。

さらに4代目皇帝の康熙帝は外モンゴル、青海、チベットを服属させました。5代目の雍正帝の時代には台湾を服属させました。6代目の乾隆帝の時代になるとついに新疆・ウイグルを服属させました。

このように満州族は初代から6代目までの優秀な皇帝の元で強大な大清帝国を築き上げました。このように1616年~1795年まで清は隆盛を極めたのです。現在の中華人民共和国の国土は大清帝国の領土とほぼ一致します(台湾を除いて)。現在の中華人民共和国は満州族に感謝しないといけないかもしれません。本来、漢民族の固有の領土ではないチベットやウイグルを領有しているのですから。チベットやウイグルは清が滅んだ時、自治独立しようとしたのですが、その後中国共産党は人民解放軍を送って、同地を征服したのです。これが今もくすぶっている民族問題なのです。同地も漢民族に支配された歴史はなく、満州族に一時期、支配されていただけです。

しかし、隆盛を極めた清も1800年代になると西洋列強の干渉を受け、衰退します。「滅満興漢」をスローガンに漢民族の洪秀全が1851年に太平天国の乱をおこし、ついに1912年、漢民族の孫文による辛亥革命によって清は滅ぶことになります。

これにより、満州族の高官たちは華南や華北から追われ、先祖の地である東北地方に戻っていくことになります。モンゴル族の元が漢民族の明に滅ぼされた時にモンゴル平原に帰っていった時と同じです。

次回はいよいよ、満州帝国成立について、述べたいと思います。













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満州国1 [歴史]

中国が国恥記念日とする9月18日(柳条湖事件)が近づいているので、これに関係する歴史を数回、語らせて頂こうと思います。この事件をきっかけに日本軍は満州を約5か月で占領し、清最後の皇帝溥儀を執政として迎え満州国を建国しました。

満州国この国家は事実上、関東軍が成立させた傀儡国家です。しかし、なぜこの国家はたとえ傀儡であっても、短期間で成立し、その後、13年間も継続できたのか不思議でした。満州国はとりあえず、国家としての体は成していたのです。

他方1937年から始まった日中戦争では南京や武漢などを占領したものの、中国軍民の抵抗で占領地の保持に苦しみ、日本軍は大きな被害を被ったのです。

満州国は現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省ある地域を指します。これらの地域と南京、武漢がある地域と何か違いがあったからに違いありません。満州の歴史に触れつつ、何回か語らせていただきます。






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ガンジーの非暴力・不服従(終戦記念特集) [歴史]

ガンジーの非暴力・不服従はあまりにも有名です。この運動は後にキング牧師にも影響を与え、喜劇王のチャップリンも強く支持したそうです。この考えは暴力に対して暴力で抵抗すれば、憎しみの連鎖を呼び、不幸を招くというものです。私もこの考えは一定程度理解できます。

しかし非暴力・不服従でガンジーが名を残せたのは相手がイギリスだったからだと私は思うのです。イギリスはその当時、帝国主義をとり多くの植民地を持っていましたが、それでも相対的に人権を尊重していた国だと私は思うのです。ガンジーは何度も投獄されましたが、殺されはしませんでした。もしナチスドイツに同じことをして、目的を達成できたでしょうか?ガンジーはガス室に送られ、名を残せなかったと思います。

現代においても同じことがいえます。北朝鮮の将軍に非暴力・不服従で抵抗することができるでしょうか。すぐさま処刑されると思います。これは中国共産党であっても同じです。

やはり相手が凶悪な政権である場合、一定程度の暴力による抵抗(レジスタンス)も許されるべきと思います。アメリカ憲法にもそのような趣旨が書かれています。


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大河ドラマ「おんな城主直虎」(前半)を見て [歴史]

大河ドラマ「おんな城主直虎」が後半に入りました。
私は前半について少々不満があります。直虎が城主として民の生活を思いやっているシーンなど、
人間味のある所はよく描かれています。しかし大河ドラマはドラマではあるものの、歴史小説でもあります。ところが、このドラマは歴史的な要素が本当に少ないです。特に直虎の許嫁であった井伊直親が殺されてから、直虎が城主になり、そして今川家が滅ぶまでの期間、西暦何年に何が起こったのかまったく描かれていません。

盗賊が出てきたり、坊主が出てきたり、商人が出てきたりといつの時代にもありそうなことを何か月も放送したのです。

後半は歴史をもっと描いてほしいです。もう少し西暦を画面に表示すべきです。




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桶狭間の戦い その時歴史が動いた [歴史]

先日、大河ドラマおんな城主、直虎で桶狭間の戦いのシーンがありました。私はこの戦いほど、歴史(日本史)を動かした戦いはないと思っています。なぜなら、この戦いで今川が勝って、織田が負けていれば、まず織田信長の天下布武はなかったし、その家臣であった豊臣秀吉の天下統一もなかったからです。さらに今川の人質であった徳川家康の江戸幕府も存在しなかったし、井伊直政の彦根藩ももちろん存在しなかったからです。

この戦いは短時間に終わりましたが、歴史的意義は上記のように非常に大きいです。例えば川中島の戦いはすさまじい戦いで戦国史上もっとも死傷者の出た戦いですが、武田と上杉は引き分けたため、大勢に影響なく歴史的意義はあまり大きくないのです。


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歴史を見る視点(今川義元を例に) [歴史]

大河ドラマおんな城主直虎を見ると、今川義元がなかなか優れた武将であると感じます。いつも織田の方から今川義元を見るので、どちらかというと公家風で愚将のように見えます。しかし実際は遠江の国人領主である井伊家も服属させられているし、三河の松平元康(後の徳川家康)も人質されています。また領国経営、外交手腕も大いに発揮しています。武田信玄、北条氏康と三国同盟を結んで領土拡大を図っているところなどを見てもそれを伺い知ることができます。

また義元は公家風ではあったけども刀の腕はなかなかのものであったらしいです。



公家風であっても刀が弱いとは限りません。室町幕府13代将軍、足利義輝が松永久秀に襲われた際にも十数人なぎ倒したそうです。


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上杉謙信、軍神ではあるが [歴史]


 北条氏康VS上杉謙信


 武田信玄VS上杉謙信

関東の雄である北条氏康は謙信を恐れて、自分の息子を人質に差出しました。また川中島の合戦では謙信は武田信玄の軍師山本勘助のキツツキ戦法を見破り、軍師山本勘助と信玄の弟信繁を戦死させました。これらを見ても謙信がいかに神がかっていた武将であったかをうかがい知ることができます。
 しかし私は少し謙信に不満をもっています。軍神に対して不満を言うのは大変おこがましいことなのですが、ずっと思っていたことなので言わしてください。それは織田信長に対する謙信の行動です。謙信は信長との戦いでは能登七尾城を攻め落とし、さらに手取川の戦いで勝利しました。ここまではいいのです。ただ、なぜここで戦をやめてしまったのでしょうか。正直、物足らないです。謙信は室町幕府の役職である関東管領に就いていました。ゆえに室町幕府の足利将軍に忠誠を誓っていました。1573年に信長は将軍足利義昭を追放しており、謙信から見れば信長は逆賊にあたります。
 次に信長は1571年に比叡山を焼き討ちしており、仏道に深く帰依していた謙信から見れば、仏敵にあたります。したがって、謙信は安土城まで攻め上って、信長を討たなければならなかったはずです。しかし歴史上、謙信はそれをしなかったのです。
 ちなみにライバルの武田信玄は上洛しようとしました。ただ、途中で病死してしまったため、志は実現できませんでした。



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幸村、親父越え果たす [歴史]

第一次、第二次上田合戦と大阪冬の陣の戦い方はよく似ていました。すなわち、まず敵を挑発し、その上で敵を城まで引き付けておいて、鉄砲や弓、投石、熱湯、丸太を一斉に浴びせ、仕上げはあらかじめ用意しておいた伏兵で逃げてきた敵を襲うという戦法です。
この戦法は幸村の父、昌幸が得意とする戦法で、幸村は父からこの戦法を学びました。
しかし、大阪夏の陣では大阪城の堀が埋められ、真田丸も破却されていたため、この戦法は使えませんでした。
大阪夏の陣で家康本陣まで迫った幸村の戦法は自ら考案した独自の戦法だったのです。家康は命からがら、本陣を捨て天王寺から平野、久宝寺へと敗走したのです。武田信玄に三方ヶ原で敗れた時以来の敗走です。幸村の戦法がいかに凄いものであったかということを伺い知れることができます。
この時、幸村は親父越えを果たしたのです。


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徳川と真田 [歴史]

徳川と真田は共に相容れぬ関係でしたが共通点がありました。
それは両家とも武田信玄を非常に尊敬していたという点です。
真田幸村の祖父、真田幸隆は信玄が信濃に進出した際、武田の家臣になりました。幸隆、昌幸父子は信玄の軍略、政治力、人間力に心酔し、多くのものを吸収しました。
一方、徳川家康は武田信玄とは敵どうしでありましたが、三方ヶ原の合戦で完膚なきまでに叩かれた際、信玄のことを恐れると同時に尊敬の念を抱いたのです。後に織田信長に武田家が滅ぼされた際、武田の遺臣の多くを取り立てています。会津藩の藩祖、保科正之(徳川秀忠の三男)の養父、保科氏は武田の家臣です。これら優秀な武田の家臣が徳川に吸収されたことによって、徳川軍はより強固になりました。
豊臣秀吉の大軍と小牧・長久手で戦った際、対等に渡り合えたのは、この影響が大きいのです。
また信玄が制定した分国法、甲州法度を江戸幕府の統治法に取り入れたそうです。
真田と徳川の戦いは武田の軍略を知り尽くしたものどうしの戦いだったのです。家康が真田を恐れたのはその戦い方が武田信玄の戦い方とよく似ていたからなのです。


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上杉景勝や直江兼続に義はない [歴史]

弱きを助け、強きをくじく、これはかの有名な上杉謙信の「義の精神」を表します。
景勝、兼続は謙信から「義の精神」を学びました。しかし、彼らの行動はどうでしょう?関ヶ原の時は徳川家康と一戦も交えず、挙句の果てに大阪の陣では幕府軍として豊臣軍を攻めているではありませんか。
鴫野・今福の戦いで上杉・直江は豊臣軍に大きな打撃を与えています。上杉景勝を慕っていた真田幸村も大変失望したことでしょう。また彼らに薫陶を授けた上杉謙信公も雲の上で怒り、そして悲しんだことでしょう。


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浅井長政の怨念 [歴史]

大河ドラマ真田丸もいよいよ大阪冬の陣です。真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長曾我部盛親、明石全澄ら浪人衆はそれぞれ入城した理由は異なるものの、徳川幕府軍に対し、よく結束し、よく戦いました。
豊臣家を滅ぼした元凶は淀君、その妹のお初、お江そして淀君の乳母であり、大野治長の母、大蔵卿です。彼女らは家康の口車に乗り、大阪城の堀を埋めてしまいました(冬の陣の後の和睦)。彼女らの行動は命崖で戦った浪人衆の努力を無にしました。
彼女らはすべて浅井家ゆかりのものです。豊臣秀吉は信長の配下として浅井の小谷城攻めで主導的な役割を果たしました。その因縁というものでしょうか、彼女らが結果として豊臣家を滅亡させたのです。




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傾国の美女 [歴史]

淀.jpg 淀君の決断はことごとく豊臣家にとってに裏目にでました。まず関ヶ原の時、東軍西軍のいずれにもつかず、あくまで家来どうしの争いを傍観するという立場をとりました。その結果、石田、大谷、宇喜多という豊臣家忠義の大名が滅ぼされ、豊臣家自体も65万石(和泉、河内)の大名に成り下がってしまいました。
次に大阪冬の陣において、真田幸村が真田丸で徳川軍に打撃を与えたあと、家康は国崩しという大筒で大阪城にむけて玉を発射しました。これに怯えた淀君は和議に応じました。その結果、大阪城の堀がうめられ、天下の名城が丸裸にされてしまいました。これで事実上、豊臣家の息の根は止められたと言っても過言ではないでしょう。
さらに夏の陣で幸村を始めとする浪人衆が豊臣秀頼の出馬を要請をした時、淀君は頑として聞き入れませんでした。豊臣忠義の浪人衆は秀頼の馬印を見れば味方の士気が上がり、同時に幕府側の豊臣恩顧の大名に少なからず動揺を与えることができると考えたのです。しかし、淀は秀頼に危険が及ぶとして、最後まで出馬させませんでした。この期に及んでなんという決断でしょう。浪人衆としても秀頼と共に戦って、死に花を咲かせたかったことでしょう。
淀君という女性は男を虜にする能力はありましたが、政治的能力はまったくなかった女性であるといえます。「真田丸」で出てくる淀君も意味深なことを言うだけで役に立たたない人物ですねぇ。






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悪役の平清盛、実は偉大な人物 [歴史]

厳島.jpg  ” 驕る平家は久しからず”というふうに清盛は悪いイメージをもたれていますが、現代の感覚で見てみるとなかなかの人物であったといえます。まず清盛は宋銭をわが国に取り入れ、貨幣経済を充実させました。次に神戸に大輪田泊という国際貿易港を築き、音戸の瀬戸という航路も開削しました。これによって国際貿易が盛んになりました。最後に清盛の創造性が豊かだったという点です。その例が厳島神社の造営です。海に浮かぶ鳥居、華麗な社殿、現代の私たちから見ても引き付けられるものがあります。現に厳島神社は世界遺産に登録され外国人を含む多くの観光客が訪れています。
これに対して征夷大将軍の源頼朝は御恩と奉公というふうに、武士に領地(農地)を与えるかわりに忠誠を誓わせる封建制度に力をいれており現代社会においては参考にできるものではありません。後に江戸幕府を開幕した徳川家康も同じだと思います。
入道相国、平清盛は現代においても通用する人物だと思います。





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どうも真田信繁という呼び方なじめない [歴史]

takeda_shingen.PNG 大河ドラマ「真田丸」で主人公を真田「幸村」と呼ばず真田「信繁」と呼んでいます。史実は「信繁」らしく、江戸時代の物語の中で「幸村」と呼ばれていたそうです。
ただ、「幸」という字は真田家の諱(真田幸隆、真田昌幸、真田信幸)であり、「信繁」と聞くと武田信玄(晴信)の弟、武田典厩信繁をイメージしてしまうから、「幸村」と呼ぶ方がなじみやすいです。




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西軍のつわものたち [歴史]

yjimage.jpg 大河ドラマ「真田丸」いよいよ関ヶ原の戦いのシーンが近づいてきました。私は西軍の石田三成、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継の四将はよく頑張ったと思います。なぜなら東軍は徳川家康(井伊直政、本田忠勝)を筆頭に福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎ら全員が戦に参加していたのに対し、西軍は毛利秀元、吉川広家、長曾我部盛親、島津義弘らは終始、日和見で戦に参加しておらず、極めつけは小早川秀秋が裏切ったからです。
西軍は小早川が裏切るまで、互角もしくは優勢であったと史実で書かれており、いかに四将が奮戦していたかを伺い知ることができます。
とりわけ大谷刑部少輔は敦賀5万石の小大名でありながら3000の兵を集め、藤堂、京極軍と互角にわたりあい、また裏切った小早川15000の軍を一度は松尾山の麓まで押し返しています。大谷吉継は文治派の武将のように語られることがありますが、武人としても優れていたと考えられます。
また吉継は義に厚い武将です。豊臣家に対する忠義、石田三成という友への友情を重んじ、徳川家康という大大名に戦いを挑みました。大河ドラマでよく出てくる伊達・前田・黒田・毛利・直江などは結局、義よりも家を優先し、家康と戦わなかったのです。要は彼らは家康が怖かったのです。
その点、大谷吉継、石田三成、真田幸村はみな義を貫くために戦った英雄だと私は思います。




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