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裁かれなかった戦争犯罪人2(終戦記念日特集) [歴史]

2回目は辻政信陸軍大佐です。彼は関東軍参謀本部にも所属していました。
辻はノモンハン事件、ポートモレスビー作戦を指揮した人物です。他にもフィリピンにおけるバターン死の行進、ガダルカナル島の戦いにも関わっています。ここでは前2者について触れたいと思います。

まずノモンハン事件について述べます。1939年5月にモンゴルと満州帝国との間で国境紛争が起こり、それぞれの国の後ろ盾であるソ連と日本が衝突することになりました。当初、陸軍省中央は事件不拡大の方針をとっていましたが、関東軍が独断専行でソ連との紛争に踏み切ったのです。
その当時、日本は日中戦争が泥沼化している最中で、ソ連との紛争を避けるべきでした。にもかかわらず、辻参謀は強行作戦を主張し続けたのです。

その結果、ソ連の機械化部隊(戦車)による大攻勢を受け、日本軍は大敗し、第23師団は壊滅したのです。そして自分自身は何の責任も取らず、部下に責任を押し付け、自決を強要したのです。

次にポートモレスビー作戦について触れたいと思います。1942年6月にミッドウェー海戦で敗北し、日本の太平洋における制空権が危うくなりました。その結果、既に占領していたニューギニア方面のラバウル航空基地の重要性が高まりました。ところが、ポートモレスビーという町に駐留していたオーストラリア軍とアメリカの航空部隊がラバウルを奪還しようとする動きを見せました。そこで、ポートモレスビーのオーストラリア軍を叩こうという考えが陸軍の中で浮かびあがりました。しかしこの作戦はオーエンスタンレー山脈(最高峰4,000メートル)を直線距離で220キロを陸路で進行するというものであったため、大本営による慎重な調査研究をまつ必要がありました。
ところが、辻は「今や研究にあらずして実行である」と述べて、大本営は陸路攻略を決定したと偽の通知をして、攻撃命令を出したのです。その結果、あまりにも無謀な作戦であったため、約5000名の兵士がオーストラリア軍の攻撃と飢餓で犠牲になったのです。

辻は敗戦後、B級戦犯の指定を受けましたが、スキンヘッドであったことを利用して、僧侶に身をやつし逃亡したのです。戦犯指定解除となる1949年まで逃避行を続けたのです。辻の指揮を受けていた師団長たちはフィリピンなどでBC級戦犯として銃殺刑にされました。にもかかわらず、辻はのうのうと社会復帰をはたし、1952年には衆議院議員に当選します。なぜ、このような人物が裁かれなかったのか不思議でなりません。


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