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満州国4 [歴史]

蒋介石軍が北伐を完了し、南京国民政府は華南・華中・華北(本来の中国の領土「中華」)を統一しました。これにより、張作霖という軍閥は華北を追われ満州に逃れることになりました。張作霖は漢民族出身ですが、元々、馬賊(盗賊の頭)出身で満州一帯を荒らしまわっていた経歴がありました。そういう理由で満州に縁があったといえます。この動きに対して満州に権益(満州鉄道等)をもっていた日本の関東軍は彼が邪魔だと判断し、爆死させました。これに恨みをもった、息子の張学良は蒋介石と手を結び、抗日運動を展開することになります。

関東軍参謀、石原莞爾は満州にいる張学良軍を叩き、満州を平定することは極めて容易であると判断しました。結果として関東軍の精鋭はわずか1万数千で張学良の23万の軍を打ち破り、たった5か月で日本国土の3倍あたる満州全土を掌握しました。確かに、この地域にも漢民族はたくさん住んでいました。漢民族はどうしても人口が多いので、満州に流れこんでいた者もいたのです。しかし、彼らは自分たちの住んでいる地域が中国(中華)であるという認識はなかったのです。この地域は元々、満州族が治めていた地域であったからです。関東軍が進軍した際、満州民族は自分たちの国を建国したかったため、協力的でした。そこに住んでいた漢民族の民衆も抵抗しませんでした。また、張学良の軍も中華ではない満州を守るために命がけで戦う者が少なく、非常に士気が低かったのです。他方、関東軍は日露戦争で獲得した満州の権益を守る必要があったため、非常に士気が高かったのです。さらにそれを指揮した石原莞爾は日本帝国陸軍にはめずらしく、天才的な軍人だったたのです。

石原莞爾は単に軍人というだけではなく、思想家でもあり、歴史家でもありました。他の関東軍参謀とは違って、満州民族の歴史を熟知していたのです。彼は満州事変を起こす前からそれほど大きな抵抗をうけることがないことを知っていたのです。それどころか、清朝最後の皇帝で満州族の溥儀を皇帝に立てれば、満州民族の民心を味方につけることができると考えたのです。これを見事に成功させた事件が満州事変です。

彼はのちに盧溝橋事件(1937年)に反対し、それ以上中国戦線を広げるべきではないと主張しています。自ら、満州事件を起こしておきながら、なにか矛盾した主張のように感じますが、実は矛盾していません。
北京、上海、南京、武漢、重慶などは間違いなく、古来から中国の領土です。例えば、南京でいえば、三国志の呉の都、建業のことです。そのような地域に進軍すれば、軍だけではなく、民衆も抵抗します。石原はそのことをよくわかっていたのです。しかし東条英機、板垣征四郎、武藤章などのA級戦犯はそのことがわからず、どんどん戦線を拡大させ、戦争を泥沼化させていったのです。








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